こんにちは。数秘LIFE®研究家の旅人1198 です。
医師 中村哲氏のアフガニスタンでの活躍を記録した映画『仕事・働くということ』を見に行っ
てきました。干ばつ、天災、戦災で、想像を絶する惨状のアフガニスタン。中村医師は医療活動を
続けながら独学で土木を学び、日本人の知恵の結晶である、川の流れを変える『堰』をアフガニス
タンの石の文化と融合させ、現地の人々と協力して用水路を完成させたそうです。
36 年に渡る人道支援。中村医師のマイナンバーは6・8・6。
人間業とは思えぬ行動力とパワー。偉大さ、崇高さは数字からも伝わってきます。
【母の宣言】
『いつかまた、この世に生まれてきたら、ママはまた保健室の先生になるからね。』
退職の日が近いある朝、母がそう言った。
母は、父と結婚する前は看護師として病院で働いていました。
『子供が小さいうちは家にいる』と父と話し合ったようで、結婚し出産後は、家事と育児の日々。
子供達の手が離れてくると、看護師だった資格を活かし、教員採用試験を受験すると決め、母は猛勉強を始めました。
33 歳で養護教諭の採用試験を受け、見事合格。それから60 歳で退職するまでの27 年間、母は小学校の保健室の先生としての役目を果たすことになります。『また保健室の先生になる』明るく話す母の言葉に、うなずきながらも、退職とともに学校を去ることになる母を想像し、私は涙が止まりませんでした。
【本質数9 の私には辛かった1年間】
毎日の生活が大きく変わることについて、本質数2 の父と1 の母は、あまり深く考えていない様子。敏感な私は、何となくそう感じ取りました。
それでも『一人で幼稚園に行かせることはできないだろう』と一瞬は思ったようで、小2 の姉に私を幼稚園に送るよう言い聞かせる始末。姉の学校より幼稚園の方が遠く、どう考えても無理がある状態。何回か試した結果、姉の負担が大きいため、この作戦はすぐに変更になりました。
一人で幼稚園に行くことになりました。
家族と一緒に身支度を済ませ、ベレー帽をかぶり、鞄を襷掛けにした状態で三人を見送り、しんとした部屋で一人ぼっちになる。時計の⾧い針が2 のところまで来たら家を出る。幼稚園までの道は遠く感じられ、おそるおそる道の端を歩きやっとのことで到着。まだ誰もいないしんとした幼稚園の庭で、先生が来るのを待っていました。
ある朝、いつもの通り幼稚園の庭に到着。数匹の野良犬がものすごい勢いで唸り合っている場に足を踏み入れてしまいました。まだ野良犬がそのあたりをうろうろしていた時代です。犬は襲っては来ないまでも迫力満点の唸り声。怖くて身動きができなくなった私は、大声で泣き
叫び・・・。たまたま、早めに出勤した担任の先生が私を発見し、大事には至りませんでした。
この時点で幼稚園側にも、母が働いているので、一人で早めに家を出ていることが伝わり、先生が時間を合わせて出勤してくれることになったようでした。
しばらくして、近所のY 君が幼稚園に編入することになり、私は母が家を出るタイミングでY君の家に移動させてもらい、Y 君の家で時間調整をして、二人で幼稚園に行くことになりました。安心したのも束の間、事件はまた起こりました。母は幼稚園からの手紙など、全く見ていなかったようで・・・。『今日はお昼のない日だよね』Y 君のお母さんが私に話しかける。『お弁当持ってきた?』お弁当が入っているとは思えない鞄を開ける。予想通り入っていない。すると優しいY 君のお父さんが、大きなカステラを切り、バナナと一緒に持たしてくれました。Y 君のお父さんの優しさに、泣きべそをかきながら受け取り、幼稚園へ向かう私。
お昼の時間。私のカステラ&バナナランチを見つけた園児が、大きな声で叫ぶ。『いいな、いいな、お弁当カステラでいいな』皆からの注目を受け、固まる私。カステラを持たせてくれたY君のお父さんまで、みんなにはやし立てられているようで、許せない思いがこみ上げると同時に、Y 君のお父さんの優しさが心に染みて、泣けてくるのでした。たまに母が幼稚園まで送ってくれ、お弁当を手作りする余裕などない母は、幼稚園の近くのお店でパンを買ってくれました。クリームパンとソーセージパン。母と手をつないで歩く安心感と、パンを買ってもらう嬉しさで気分は絶好調でした。当時はコンビニなどなく、パンもまだ珍しく、ご飯のお弁当が一般的だった時代。それが故に、またもやお昼の時間に私は皆の注目を浴びるこ
とに。『パンだ!』『どれどれ?』『僕もパンがいい』パンを持たせた母が皆からからかわれているようで、悔しさを噛みしめ、泣きながらパンを食べる私。
極めつけは・・・。
熱が出て、赤いぼつぼつが出てきた。水疱瘡らしい。ぐったりする私に、母が言う。『これを首に巻いて明日幼稚園に行って。ママ、予防注射の日で休めないの。水疱瘡だって言っちゃだめよ。』幼稚園のスモッグに、スカーフはかえって目立ってしまう。午前中の遊びの時間が終わった時点で、『ねえ、何で首に巻いているの』『これなあに』またしても、目ざとい子が近寄ってきて騒ぐ。追い詰められた私は、耐えきれなくなって、母との約束を破り『水疱瘡なの!』と大きな声で叫んでしまった。先生が飛んできて別の部屋に隔離され、母が帰る時間に合わせて帰宅することになる。
次の日、父のバイクの前の席にパジャマのままの私を乗せられ、父の会社の先輩の家へと移送される。熱もあり、泣く元気もない私は、途中で父が買ってくれたポッキーを抱きしめ、父から優しいおばさんにバスケットボールのようにパスされ、数日を過ごすことになる。
カステラとバナナ、ポッキー、クリームパン、ソーセージパン。どれも切ない思い出の品だ。
それにしても色々な方にお世話になった。私が育った『昭和』はみんなが優しく温く、皆で子供を守る時代だった。
わずか1年の間に起こった様々な事件は、幼稚園児の私にはとても堪える出来事でした。
小学校に入ってから情緒が不安定だったのか、授業中に急に悲しくなり、お腹が痛いと嘘をついて保健室に行くということを繰り返す日々。
保健室の先生は、何度も保健室に通う私をいつも笑顔で受け入れてくれました。
その後も、母が働いて家にいないことで、寂しさを感じる経験をしました。
急に雨が降れば、お母さんが傘を持って校門に待っていてくれ、忘れ物をすれば電話1本でお母さんが届けてくれる友達たち。私は、雨が降れば走って帰り、忘れ物は走って取りに帰る情けなさ・・・。
自分は絶対に仕事はしない。子供のために家にいる母になる、幼子心にそう思いました。
【母は保健室の先生です】
仕事柄、余計なことは口にしない母でした。
ある日、『運動会があるから見に来て!』珍しく母が言うので、父と姉と私で見に行きました。
救護テントにいる母は、家にいる母とは全く違った母でした。
生徒達に『先生!先生!』と呼ばれ、子供達に負けない元気な声で、受け答えをしている。
運動会の音楽にあわせて手拍子したり、笑ったり、生徒に手を振ったりと、とても楽しそうだ。
何より背筋がピンとはり、若々しく、はつらつとしている。
かっこいいと思った。きれいだなと思った。
その日の夕食は、『母がイキイキとしていた』ことで,家族4 人で大いに盛り上がりました。
考えてみると学校というところは常に気が抜けない場所だ。
保健室の先生は、子供達の心と身体の成⾧、健康を守る重要な役割を担っている。
健康診断、身体測定や予防注射。林間学校や遠足、運動会。自治体との連携や研修への参加。
学校内の先生たちとの協力。
何より、様々な事情を抱えた生身の子供達が何百人単位で毎日通ってくる。
事故や疾病の応急処置や判断、持病のある子への対応、障害児学級の手伝い、不登校の子への毎日の声掛け、生徒や親からの相談事の対応など、母は養護教諭の役割を超えて、『みんなのお母さん』として存在していたのだ。
ある日、いつもより遅い時間に母が帰って来た。障害のあるA君が学校からいなくなって、みんなで探し回ったという。『今ならまだ近くにいるかもしれない』手の空いている先生達で、学校の周りを探す。母も何も持たず、室内履きのままで学校を飛び出した。学校を出てすぐのところに国道がある。なぜかその道をひたすら走った。
母は勘がよかった。
学校出てから国道を約10km。ゆらりゆらり歩く見覚えのある姿を発見した。A君だった。
『もう、帰ろうね。』
何もなかったかのように話し掛け、A 君と手をつなぐ。
帰り道はタクシーを拾い、運転手さんに事情を話し、乗車させてもらった。
電話代を借りて学校に電話している間に、『お腹がすいているだろうから』と、A君にジュース
とパンを買ってくれる優しい運転手さんだった。
大仕事を終えてほっとしたのだろう。母は私達に話をしながら、ご飯をもりもり食べた。
【卒業生からの贈る言葉】
母のお通夜の日。
母の棺の前で⾧い間じっと動かず、母と会話しているように見える男性がいた。
近寄って挨拶をしたところ、何年にも渡り母に年賀状をくださる、覚えのあるお名前の方だった。
「卒業生です。先生に『生きる勇気』をいただきました。助けていただきました。」
その言葉だけで充分だった。
まるでM さんが全ての卒業生代表として、母の元に駆けつけてくれ、家族が知らない母の姿を最後の機会として、私達に伝えてくれているような瞬間だった。何十年たっても母のことを忘れずにいてくれたM さんを、母もずっと案じていたのだろう。
『思いは通じる』のだと思った。
7・1・1 の母を思い、マンダラを作ってみました。
母の7(群青)は、1・2(白)・2 の父に支えられ、何があっても動じないどっしり感の母の1(赤)は、行動力のある父と同じ1(赤)。
母の強さと優しさに父の存在が加わり、こんな形になりました。
『仕事なんてしないで子供のために家にいる』と幼心に思った私だったが、大人になり、全く違う道を歩む人生を選択しました。
そんな私の仕事や生き方について、母は深く理解してくれ、心の奥の底力を呼び覚ます励ましを何度もしてくれました。だから私はこんなにも⾧く仕事を続け、生きることができました。
母の強い心の持ちようは、私には到底真似できるものではありませんが、母の仕事に対する一生懸命さは、今なら私が一番の理解者であると、母に伝えたいと思います。
【おまけ:紫と赤】
このブログを書いている途中で、『数字と色との関連性』という、ともこ先生の動画が公開され
ました。早速、家族に当てはめてみると・・・。
母 7(群青=赤と紫) 1(赤) 1(赤)
父 1(赤) 2(白) 2(白)
姉 22(ゴールド) 6(ピンク=白+赤) 6(ピンク=白+赤)
私 11(シルバー) 9(紫=赤と青) 8(オレンジ=赤と黄)
母と私は紫と赤、父と姉は白と赤が共通色であることを発見しました。
姉と私は、父と母からそれぞれ違う部分を受け継いでいて、『姉+私=父+母』となる意味が、色によって浮き彫りになった気がします。
3 ケ月前に自分の数字を数秘LIFE®カルテで読み解いてみました。本質数9(紫)について掘り下げたところ、岩を背負わされているような重苦しさを感じました。(過去のブログをご覧ください)キーワードの『慈悲、奉仕』。言葉の意味もわからなくなり、目指すものと自分の現状にギャップを感じ、思考停止してしまった私がいました。
そんな9 の紫が、母の7(群青)の一部として、存在している。
母こそ、学校の子供達やその家族にも心を寄せ、慈しみ、無償の愛を注ぐ『紫人』でした。
こんなに近くに、私の本質数9=紫の見本となる人がいた。
数秘LIFE®カルテを作成し、深掘りした結果、母への思いがすっきりと整理されました。
母は偉大な人であり、私の最愛の人だ。
今度のお彼岸には、紫と赤の花をお供えしよう。
旅人1198
この記事を書いた人
数秘LIFE®︎研究家 旅人1198
研究テーマ:今までご縁のあった方のマイナンバーの分析と、自分のナンバーとの関係性、傾向を探ること。
目標:数秘LIFE®️を楽しむ仲間を増やしていくこと